



いつだって今「その時」しか学べない
自然界では、人間だけが生きていくために必要な能力は、まだ備えていない状態「生理的早産」(アドルフ・ポルトマン)で生まれてきます。
現代の日本という社会に生まれ落ちたその瞬間から、人間は後天的にあらゆるものを学んで身につけ始めるのです。
その学びは、目の前の現実に止まることなく、子育てから恋愛、仕事の仕方、貧困や病い、老いとの付き合い方、言語コミュニケーション能力、様々なものづくり技術、さらには何万年の人類の歴史、何億年の地球の歴史、微生物、分子のミクロの世界まで、あらゆることがらにおよびます。
この学びに終わりはありません。子どもには子どもの、20代には20代の、母親には母親の、父親には父親の、社員には社員の、経営者には経営者の、ボランティアにはボランティアの、高齢者には高齢者に固有の学びが、それぞれにあります。
時として動物以下の行動をもしてしまう人間が、生物としてのヒトから人間らしい存在になるには、まさにこうした「読書」をはじめとする学びこそが、人間にとっては不可欠の活動であることがわかります。
まずだいたい7歳の時に稽古をはじめます。この年は現在私たちが小学校にあがるころに相当いたします。お能もむずかしいことは教えずに子供の気の向くままに自由にさせておきます。舞の多い曲ばかりを教え人情味の細かいものには手をつけないで、「大様にする」ということのみに力を入れます。それは子どもの時に覚えるにこしたことはないのです。こうして教育の第一歩は踏み出されます。 (世阿弥『花伝書』白洲正子訳)
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十二、三になるとしだいにいろいろのことを自分でわきまえるようになり、欲も出てきます。相当に舞や謡がじょうずだと、悪いところはかくれて良いことばかり目につき見物(観客)には受けます。成長ざかりですから教える方にとってもやさしく、芸ものびる時代です。この時に教える方も習う方も正確に、しかも厳格にせねばなりません。「十で神童、二十で才子」と下がるかもしれないたいせつな時であるからです。
(世阿弥『花伝書』白洲正子訳)
十七、八の時はまたたいせつです。声がわりの時期ですからまず美しい声 で聞かせることができなくなります。身体も半分おとな半分子供のような平均のとれない形となるので、見せることができなくなります。十二、三のころにひきかえて得意の絶頂から谷底へおとされたような気がしてひじょうに不安を感じます。その不安な気持ちはすぐに見物につたわります。いくら見物にあざけられようとも、一生の境目はここであると決心して、やけをおこさぬことです。このくらいのことでお能をあきらめてしまっては何にもなりません。お能の名人になるには(何も名人を目指す場合に限りません)、先々もっと苦しいこと辛いことに出会うものと覚悟をせねばなりません。 (世阿弥『花伝書』白洲正子訳)
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紀子、君が言っていること は正しい。
AIは意味を理解しない」